β次元日記

α次元にはいけない。せめてフィクションの話をしよう。

どうぶつの森は「しない」

こんばんは、クロワッサンです。

今日はちょっと長め。

 

それは、「する」より「ある」のゲームだと思う。doよりbeと言い換えてもよくて、そしてこれは、未プレイの人に概要を説明するのが難しいことの理由でもある。

なんの話かというと。
そう。
どうぶつの森!!!!!!!!!!ポケットキャンプ!!!!!!

いやー、出たね。いいよね。ゲーム開始当初は、「あっ、しずえさん?どうも初めまして……ペリカン姉妹はどこ……?たぬきちは………………?」というさみしさを感じたんですけど、住人と会ってみたらまあ興奮した。


懐かしい顔ぶれがいっぱいで、もうね、私の最推しだったキャラメルが、なんとのっけからいる。かわいいよー最高だよーこっちむいてー!!!!

アプリを開くとそこに、かつて毎日のようにおしゃべりしたり虫網でちょっかいかけたりしていたどうぶつ達がいる。ね、すごいことですよこれは。


じゃあそんなすごいゲームは何を「する」ゲームなのかというと、まあ特に答えはなくて。無理に答えを見つけるとするなら、
「全ての住人と仲良くなり、家(キャンピングカー)を最大にする」
ことだろうか。でも、それが全てではない、と思う。全ての住人の写真を効率よく集めたり、家を最速で大きくすることに重きを置く人は、イマイチどう森に向いていないんじゃなかろうか?
寧ろどう森が好きな人は、どう森の、いつ開いてもそこにキャラがいて、川があって森がある、という要素が好きなんじゃないのかな。

だから、どう森は何かを「する」ゲームというよりかは「ある」ことが重要なゲームであって、その点において、どう森とは私たちのゲームでもあると思う。


どういうことかといえばつまり、私たちには大義がない。経済発展はどうやらそのピークを終えてしまった(かつての異様なバブルは二度と来ない)らしいし、それに伴う社会問題も、今や顕在化しないで、複雑に多様化している。
あらゆる瓦礫が積み重なって、僕らどこから手をつけていいのか分からない。こういうこと言うと叩かれるし。
そのくせ、「する」ことだけは立派に求められる。

これから何をしますか。何もしなければクズですよ。何をしたいですか。何が出来ますか。何もしなければ落ちぶれますよ。

 

何を「するか/したか」ばかりが問われる世界は辛い。
その辛さの救済として、どう森は機能する気がする。ただ「ある」だけのゲーム。何をするか問うことの、忙しなさを分かるためのゲーム。
十数年ぶりにやってみたどう森は、私にとってそういうゲームでした。

 

ただまあ、どう森を手放しで賞賛するわけにもいかない、というのが悲しいところ。住人の紹介文とかはどうにかした方がいい。
例えばレイニーというカエルの女の子の紹介文はこうだ。

 

「まるいホッペが とってもキュート
言葉づかいもていねいで好印象です
例え口ぐせが「でちゅ」だとしても……」

 

ええやろがい。

「でちゅ」は確かに自分と同年代の女が使ってたら痛いけど、でもそれは
レイニーと話したプレイヤーの決めることであって、ある種権力的な立場であるところの任天堂に決められることではない。
「そういう抜け感がいいよね笑」みたいなクソ男/女みたいなそういうなんて言うんですか、目配せしてせせら笑うみたいな感じが嫌ですね。

「他の人とは違う」というだけで、その人の話し方や目の付け方を笑う。

そういうところは本当に直した方がいいと思います。私は。損なわれるんで。

 

以上です。さよなら。