β次元日記

α次元にはいけない。せめてフィクションの話をしよう。

「世界を向うに廻してか」「世界を向うに廻してだ」

  

「ママと話をしたんだろう。」

「した。」

「そしてママの味方になったのかね。」

 その前の日だったならば、私は、「敵だの味方だのっていうことはありやしないんだよ、」と答える所だった。併しその日、私は、「いや、君のだ。世界を向うに廻そう、」と答えた。 (p.210)

     イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳(筑摩書房、1990)

 

 

 ——まさか「世界を敵にまわしても」と言うとは思わなかった。

 吉田健一『金沢』についての卒業論文を提出し終えて暇が出来た私は、吉田の手による翻訳に触れてみようと思い、その端緒として『ブライヅヘッドふたたび』を手に取った。読み始めて直ぐに、私の中の男同士の強い関係性に反応する器官が何かを察知した。

 1920年代のオックスフォードで青春を過ごす二人の大学生——主人公チャールスと奔放な親友セバスチャン——の描写は驚くほど美しい。

 ただごとではない、とテクストは囁いた。そしてやはり、チャールスの視点で書かれたその半生を読み終えてみると、その視線の先にはいつもセバスチャンがいた。

 

 『ブライヅヘッドふたたび』のつくりはこうだ。

 小説は、第二次世界大戦中に軍の中隊長としてブライヅヘッドを再訪することになったチャールスの回想という形で展開される。ブライヅヘッドとはセバスチャンの家がある場所で、これは家というよりも非常に大きな屋敷である。ブライヅヘッド家はカトリック貴族であり、様々に趣向を凝らした装飾や建築で溢れている。当主であるセバスチャンの父はイタリアへ愛人と逃げており、彼は妻であるマーチメーン夫人を忌避している。

 奔放で豊かで美しい学生時代。セバスチャンに落ちる影を振り払えないまま終わっていく青春。建築専門の画家としての成功。セバスチャンの妹、ジュリアとの再会と不倫。妻子とのあっさりすぎる離別。ブライヅヘッド公の帰還と、その最期がもたらしたジュリアとの別れ。

 チャールスはそれらを、今や軍のために粗雑に使われているブライヅヘッドの屋敷で回想する。

 他にも当然、ユーモラスな登場人物や出来事があるのだけれど、本当に大雑把にまとめるとこんな感じになる。

 

 イーヴリン・ウォーの他の著作を読んだことがないし、『ブライヅヘッドふたたび』について卒論が書けるほど読み込んだ訳でもない。それだから今回はとにかく、チャールスとセバスチャンのことだけに注意を向けてみようと思う。深く読解するというのではなく、かつて同じクラスにいたとても仲の良い二人が今やもう連絡先さえ知らないと知って、彼らのことを、新橋の銀座線の薄暗いホームで電車を待つ間にぼんやり想像するというようなやりかたで。

 

 はじめに引用した会話の後、彼らは時間をかけて、しかし確実に道を違っていく。それは思想や立場の敵対といった積極的なものではなく——寧ろ接点があるという点でそちらの方が救いがあった——もっとどうしようもないすれ違いのようなものだ。

 酒に溺れたセバスチャンがイギリスを出て放浪し、たどり着いた先のモロッコで、チャールスではない別の男と共依存関係になる。セバスチャンはただただチャールスのいる「世界」から遠ざかっていく。彼が一緒に住んでいるのは足の膿んだ元軍人の男で、働こうともせず、実家が裕福な友人におぶさることに何の罪悪感も抱いていない。セバスチャンはブライヅヘッド家の人間に頼まれてモロッコへやって来たかつての友人にこう言う。

 

「ねえ、チャールス。」

「私のように一生、人の世話になっていたものにとっちゃ、自分が世話する人間がいるっていうのは嬉しいことなんだよ。尤も、私に世話されなければならない人間なんていうのは余程どうかしている訳だがね。」

                          同書(p.318)

 

 建築専門の画家として成功したチャールスと、遠い異国の地——マーチメーン夫人が見たら卒倒するような「野蛮」な国——でアルコール依存症の為に悪化する肺の炎症を抱えるセバスチャン。

 セバスチャンは自分よりもダメな人間に救われる人間だった。併しチャールスは違う。ブライヅヘッドの屋敷に魅了され、屋敷を描くことで成功の糸口を掴んだ。彼は文明の側に、社会の側にあった。

 チャールスはあの夏の日の輝きを持つセバスチャンを求めていた。併しセバスチャンはそのままではいられなかった。手を伸ばされることそのものが自分を惨めにしていく決定的な身振りになるという、あの悪循環に取り込まれたセバスチャンにとって、ブライヅヘッドに訪れては自分と家族との間を取り持とうとするチャールスは、どれだけ味方だと言っても彼の救いにはならなかった。

 

 二人のすれ違いから長い時が経って、チャールスに愛されたジュリアは、殆どセバスチャンの身代わりとして愛されたようなものだと言えるかもしれない。

 作中で何度も強調されるように「ジュリアは彼女の兄と瓜二つ」であり、またイヴ・セジウィックが『男同士の絆』のサッカレー『王女』を扱った章で指摘しているように、男AとBがいて、AがBの妹と結婚することは、妹本人とよりも寧ろ、その男同士の絆を強化するものだ。

 セバスチャンと同じ顔で、同じ血で、しかし彼よりは社会性のある彼女は——その前夫とのエピソードを鑑みても——本当に欲しいものへの回路や代替として男たちに利用される存在だ。 

 男同士の関係性を拾い上げてはエネルギーを投入してしまうという一種の傲慢さについて考えるのはこういう時だ。その裏側で犠牲になっている女たちに言及せず、仲の良さや悪さを讃えることが、自分の肉体の性を貶めることに繋がるのではないかという恐れが付きまとう。それは一本の補助線、テクストを切り開くのに有効な短剣であり、最早装備欄から外せはしないのだが。

 

 初めは強く結びついていたはずなのに、互いが互いの求めるものになれなかったせいで修復不可能なほどに離れていく二人を見て、腐女子としてはどうしても、彼らが彼ら二人で幸せになる方法はなかったのかと、否応なく考えてしまう。

 チャールスがセバスチャンよりも堕落していれば良かったのだろうか。それともマーチメーン夫人による呪いを糾弾して詰れば良かったのか。自分の未来を投げ捨てて、手に手を取ってよろよろ走り出して。しかしチャールスにそれは出来ず、それだから彼らの道は離れてしまった。

「世界を敵に回しても」と言う時、その世界とはなんだろうか。ついついそれは自分と相手以外の全ての人間と思ってしまうが、果たして世界を敵に回すとは何をすればそうなるのだろう。

 そう考えると世界というのは、第三者というよりも寧ろ自分そのものなのではないだろうか。チャールスは向うに廻す相手を見誤ったのだ。ブライヅヘッド家や他の者と上手くやることなど考えないで————それこそ妻が亡くなった後で「変人」と言われるようになった自分の父のように————セバスチャンの味方になってやれれば良かった。

 既に閉じたテクストについてそういう詮無いことを言っても仕方がないのだが、一つの時代の黄昏が書かれた小説を読むことの面白さは、自分にはどうしようもない悔いのようなものを抱くことのようにも思う。

 果たして上手く紹介出来たかは不安なところだが、ぜひ読んで見て欲しい。長いから青春時代まででもいい。チャールスの目を通して見たセバスチャンは細い華奢なグラスの中で立ち上っては弾けるシャンパンの泡の様に美しい。

 

 

 頻度は亀の如くだったが、今年もブログの更新をすることが出来た。それもこれも読んでくれる方のおかげだ。「読んだよ」と声をかけてくれる方の数に比べて閲覧数が多すぎるのがいつまで経っても謎ではある。一人200回ずつ見てくれているのか。

 来年もいろいろ書くつもりですので、どうぞよろしくお願いします。

 今回の正月は憂いなく酒を呑みます!!!!(今年は留年が決定していたので)

 

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