名探偵ピカチュウとデカい蟹
お久しぶりです。元気ですか? 私は元気です。
約一ヶ月ぶりのブログだ。書き方を忘れてしまって足取りが覚束ない。
リハビリも兼ねて、最近観たものの感想でも書いておこうかと思う。
まず劇場で『名探偵ピカチュウ』をみた。
端的に言えば、ものすごく良かった。
これは映画としての評価というよりも、ポケモンというコンテンツの二次創作として120点だという意味だ。
ポケモンと一緒に駆け回ったあの頃。強くないけど好きなポケモンがいて、味など度外視でポケモンパンをねだり、友達が兄ちゃんの友達から教わったという裏技を試して壁にめり込んだ、あの日々。
ゲームをエメラルドから始めた私の相棒はバシャーモだった。幼い私はとにかく何においても火が強いと思っていた。火力こそパワーだ。今でも爆発こそパワーだと思っている節がある。
アニメを通して好きになったのはゴマゾウだった。好きだから突進する。突進するから敬遠される。遠ざけられても好きだから突進する。その不器用な在り方と、水色とオレンジのボディにメロメロだったのだ。
だから犬よりも猫よりも何よりも、飼いたかったのはゴマゾウだった。
もしもゴマゾウが家にいたら。ぶつかって来ても絶対受け止める。軽くて丸いからきっと大丈夫だ。耐えられなければ筋トレしよう。ドンファンには進化させてあげられないけど、ゴマゾウの喜ぶようなトレーナーになれるだろう。
「ポケモンが現実にいたら、バトルよりも、ただ一緒に暮らしてみたい。」
そんな風に思うポケモンキッズは意外と多かったのではないだろうか。
この映画は確かに「主人公とピカチュウの冒険譚」ではあるけれど、一方で「ポケモンがいるifの地球」を描いた作品でもある。交通整理をするゴウリキー、消火活動に勤しむゼニガメ。街をゆく人々に連れそう多くのポケモンたち。
名も無い人々が描かれることで、ポケモン世界は奥行きを増す。そしてその広い世界のどこかには、自分の好きなポケモンと暮らす並行世界の「私たち」がいると分かるのだ。
実写化が何かと批判されやすい中で、それでもこの映画が好評を得ているのは、自分がかつて夢見た世界をスクリーンに見ることが出来るからではないだろうか。
ポケモンが好きだった人はもちろん、主人公の外部に広い世界や多様な人々が見える物語(例えば『エリア51』や『血界戦線』やFGOのカルデア職員)にピンと来る人に刺さる映画だと思う。
それからこれは完全な余談だが、アマプラで見られる『ビック・クラブ・パニック』という映画。ピカチュウと同じ週に観たのだが、これはもう世界の広がりもへったくれもないB級映画で、ナンパ男を撃退する女たち、デカい蟹、我が子を失って嘆くデカい蟹、デカい蟹のデカい抜け殻、とにかくデカい蟹という概念が見どころだ。
ピカチュウとデカい蟹を続けて鑑賞することで、映画というものの振れ幅のダイナミズムを感じることが出来る。
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