β次元日記

α次元にはいけない。せめてフィクションの話をしよう。

三月の5日間について。

 

今しがた、三月の5日間(アウトレイジ版)を観てきた。

 

公演後に飲み物を買うターンがあって。

瓶ビールと缶ビールのような何か。それから炭酸水。紙や丸い金属と交換で、それを貰い、カシュッと音がして、アフタートークもどきが始まった。

 

その時私の胃は渋谷でポークカレーを食べてから約3時間が経っていて、そもそもその前に食べたのはピザトーストが一枚とブロッコリーを10時、という具合だった。

 

だからビールはよく回って、一口呑んで一回り、二口呑んでふた回り、というふうに、私の体もなんとなく揺れていた。

だからこの文章も、あまり確かな言葉では書いていない。指の単独犯。相棒終わっちゃったね。大杉漣がいないまま。

 

身体のこと。言葉のこと。

演劇というのは、捉えようと思えばきりもないですね。

「流暢なセリフ」というのは、そこでは、止まらない奔流のことらしい。1語1語をゆっくり大事に話さず、川のようにとどまらず流れていってしまう言葉。噛むことも恐れず。

 

身体にこだわることは、きっとそれすなわち「いま、ここ」にこだわることだ。

戯曲は千年を耐えられるけど、人間の身体は1秒だって同じ形でいられない。

筋肉も。汗も。何もかも。

 

三月の5日間というのは、演劇で、2003年辺りにチェルフィッチュという劇団が上演したやつで、イラク戦争の時にセックスしまくった男女とその周辺の話を書いている。

ナマで10回やって、それからコンドームを2ダースとちょっと使った、赤の他人と、その周辺の赤の他人達について、書いている。

 

多分DVDがあって、YouTubeにも上がっているんじゃなかろうか。

内容はあんまりない。美しいストーリーラインも、泣けるハリウッド的曲線も皆無。

それでも、あの戯曲を見る必要があるのは、演劇は、身体がぐいぐいとこちらに迫ってくる芸術で(も)あるということを、思わせてくれるからだ。

 

公演とアフタートークの間、人に話しかけたのだけれど、話そうとした言葉はぶつりと切れ、身体の動きはぎこちなく、覚束なかった。

 

なんだっけ、フーコーだかフロイトだかドゥルーズだかが言っていたあれだなあ、と思った。

漠然としているのは、師匠からの又聞きだから。

世界には、エネルギーの線が通っている、という理論。岩には岩のエネルギー線があって、人間にも人間のエネルギー線があって、その線の絡まりあいの交点をエンジンに、各々の事物は動いている、みたいな。

 

分かりにくいですね。

 

なんていうか、太鼓の音が聴こえていて、そのリズムに釣られて、意識してないんだけど、歩調がリズムに合ってしまう、みたいな。

 

役者の身体が、観客にエネルギーの波になって、浸透していく。さらっていく。

そういう演劇なんでしょうね。分かんないけど。

 

 

なんか、つい、今日書こうと思っていた話とは全然別の話になってしまったので、ミステリ第六夜については近々書きます。

今日はとりあえずこんな感じで。

演劇最高なんで。 さよなら。