β次元日記

α次元にはいけない。せめてフィクションの話をしよう。

最近のこと/FNS歌謡祭は7/14水曜日です

 

お久しぶりです〜〜〜

ブログ、更新したいなと思いつつ全然出来てませんでした。

 

一番最後のエントリ、1年以上前だということに

地味にびっくりしています。

 

マジ労働を知らない私…ピカピカだった私…と思いながら読み返したんですが、

別にそんなでもなかったですね。あんまり変わってない。

変わったのは酒量だけですよ。めちゃ減りました。(なんでだ?)

 

 

そんでもって最近のトピックとしては、そうですね。

つい最近、異動-idou-になりました。

 

今までと規模の違う部署で働くことになってしまったんで、

なんかヒーヒー言いながら暮らしているという感じです。

仕事自体は楽し………いんですよ。ちょっと私の要領と労働時間がアレなだけで…。

まあでもオタク心は無事萎えることなく、推し香水発注したり

トニセンの昔のライブの小芝居タイム見たりして、なんとか元気でやってます。

 

ちなみにV6の話は別のエントリでじっくり書きます。果たしていつになるんだ。

あ、そういえば来週水曜日のFNS歌謡祭見てね!!!!!

V6が「MAGIC CARPET RIDE」初披露するからね!!!!

 

いや、これなんでこんなに大騒ぎするかと言うと、ファンも待望の初パフォーマンスなんですよ。

先月発売したシングルで「僕らはまだ/MAGIC CARPET RIDE」の両Aサイドと

銘打っておきながら、後者のMVはなく、コンセプト写真的なものもないという。

 

でも体が勝手に踊り出すくらい最高な曲なので、

「きっとどこかで披露するなら、めちゃくちゃ踊るはず、きっと攻めのV6が見られるはず!」と

いう期待が止まらないわけなんですよ!!!!

 

それが!今回!!テレビで初パフォーマンス!!

お目当ての出演者のついででいいので、超かっこいい40代アイドルの本気!!ぜひ目と耳に焼き付けてください!!!!!

 

 

…ゼェゼェ。と言うわけで、特に面白みもなく近況報告になりました。

久しぶりがこんなんで良いのか。まあいいか。

 

たまに更新したい。本当は。

土日になんも動く気力が湧かないだけで…

 

ちなみに最近やりたいな〜と思っているのは、

架空の街の広報誌づくり。

 

B4を二つ折りにしたくらいの分量で、どうでもいい街のニュースが

並んでる中に、不穏だったり訳わかんなかったりするニュースが

入っているようなやつがやりたいんですよ。

 

早い話が虚構新聞のエリア縮小版というか。

zin作りたい欲が高まっています。

 

色々やりたいことはあるのに体と心が追いつかない…

リングフィットなどして基礎体力をつけます。頑張ります。

 

それでは!

 

↓よかったら押してください〜

sake備忘録①

 

  

うまい!

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水曜日のネコ/ヤッホーブルーイング

ベルジャンホワイトエールと書いてあるがその辺の区別が分からないのでスルー。いつも調べようと思うのだけど、飲み始めてしまうとどうでも良くなる。だからいつもよく分からず飲んでいて、それで好きなビールとそんなに好きじゃなかったビールの見分けが付かなくて、いつか会った筈なのにみな初めての顔をして並んでいる酒売り場で悩むことになる。だからメモをつけようと思った。酒を飲みながら調べるのは難しくても、文章を書くのは出来る。書くことと嘔吐とが同じことだろうか。違うか。

軽薄な感じがする。日本のビールの、後味のべったりしか感じがないからだろうか。柑橘系の香り。がっつりはしてないから、一杯目より二杯目に飲むのが良いだろうなどと思う。明るい朝の日差し、短い雨が上がって直ぐの庭園みたいな印象がある。いや、しゃらくせぇなとは自分で思いました。ワインを飲んで田園とか言い出す男はいけすかない。でも良しとします。私は自分に酔っているのではなく酒に酔いたいのですから。はて。

こんな感じで続けます。酒備忘録。

 

 

 

味がいっぱい

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雷電閂/信州東御市振興公社


ザッ!柑橘系が先に来るけど、ホップとかの味もする。一緒に食べるものによっては後味が変わると思う。飲む前に唐揚げを食べたらもの凄く苦かった。そして何故かビールの後に味噌汁を飲んだら昆布がダッシュでこちらにやって来た。どういう仕組み?

とにかく味が濃い感じ。力こそパワー。パッケージが最高です。価格は恐ろしい。

 

 

 

 

軽くてうま~い

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シンハー/ブンロート・ブリュワリー

音に聞くシンハー。餃子作って飲みました。なんか勝手にシンガポールのビールだと思っていたのですが、タイなんですね。缶が可愛い。味はとても軽くてうまい。香りはそんなにないけど、場合によっては高いちゃんとしたキリンのビールとかより全然好きかも知れない。偶に行くスーパーにて何故かメチャ安で売っていたので、いつまでもあればいいなあと思った。

 

 

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BAEREN BEER THE DAY イノベーションレッドカラー/ベアレン醸造

岩手県産だったので買いました。いつもは行かないスーパーに置いてあって、そこでしか見たことない。缶が可愛い。クマ~~~~~~。実際の熊は怖いんですけど。サカナクションの過去ライブの配信見ながら呑んでます。「ミュージック」最高!いつかライブ行ってみたいなあ。光が見たい。松浦寿輝は映画館には映画を観に行くというより降り注いでくる光を浴びに行くのだというようなことを言っていましたけど、いや、ゴダールだったかな?吉田健一ではないと思います。ゴダールだってそんなこと言わないか、いや、そもそもそんなことは言っていないのかも知れません。とかく、光を浴びたい人々というものがいるということでしょう。光を浴びると自覚するには暗くなくてはいけません。隣の部屋から光が細く溢れて来て、そしてそのドアを私はいつでも開いていいことになっているというその情景、それを希望というのかもしれません。あるいは愛。

後味はちょっと苦いです。色が赤くてきれい。不思議な風味。香りはそんなにしませんけど、確かに日常を暮らしていくその隣にあるような、適度な豊かさを感じます。ただし財布には手厳しい。

 

 

お久しぶりです。書くことなさすぎて酒の記録になりました。全てリアルに酔いながら書きました。たぶん続くと思います。

 

最後にここ最近見たものを載せておきます。それではさよなら。お元気で。

 

 

www.iwanami.co.jp

CiNii Books - マラーを殺した女 : 暗殺の天使シャルロット・コルデ

 


サカナクション / ミュージック -BEST ALBUM「魚図鑑」(3/28release)-

 

 

押すとランキングの順位が上がったりします。(リンク飛びますが、それだけです)

 

「世界を向うに廻してか」「世界を向うに廻してだ」

  

「ママと話をしたんだろう。」

「した。」

「そしてママの味方になったのかね。」

 その前の日だったならば、私は、「敵だの味方だのっていうことはありやしないんだよ、」と答える所だった。併しその日、私は、「いや、君のだ。世界を向うに廻そう、」と答えた。 (p.210)

     イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳(筑摩書房、1990)

 

 

 ——まさか「世界を敵にまわしても」と言うとは思わなかった。

 吉田健一『金沢』についての卒業論文を提出し終えて暇が出来た私は、吉田の手による翻訳に触れてみようと思い、その端緒として『ブライヅヘッドふたたび』を手に取った。読み始めて直ぐに、私の中の男同士の強い関係性に反応する器官が何かを察知した。

 1920年代のオックスフォードで青春を過ごす二人の大学生——主人公チャールスと奔放な親友セバスチャン——の描写は驚くほど美しい。

 ただごとではない、とテクストは囁いた。そしてやはり、チャールスの視点で書かれたその半生を読み終えてみると、その視線の先にはいつもセバスチャンがいた。

 

 『ブライヅヘッドふたたび』のつくりはこうだ。

 小説は、第二次世界大戦中に軍の中隊長としてブライヅヘッドを再訪することになったチャールスの回想という形で展開される。ブライヅヘッドとはセバスチャンの家がある場所で、これは家というよりも非常に大きな屋敷である。ブライヅヘッド家はカトリック貴族であり、様々に趣向を凝らした装飾や建築で溢れている。当主であるセバスチャンの父はイタリアへ愛人と逃げており、彼は妻であるマーチメーン夫人を忌避している。

 奔放で豊かで美しい学生時代。セバスチャンに落ちる影を振り払えないまま終わっていく青春。建築専門の画家としての成功。セバスチャンの妹、ジュリアとの再会と不倫。妻子とのあっさりすぎる離別。ブライヅヘッド公の帰還と、その最期がもたらしたジュリアとの別れ。

 チャールスはそれらを、今や軍のために粗雑に使われているブライヅヘッドの屋敷で回想する。

 他にも当然、ユーモラスな登場人物や出来事があるのだけれど、本当に大雑把にまとめるとこんな感じになる。

 

 イーヴリン・ウォーの他の著作を読んだことがないし、『ブライヅヘッドふたたび』について卒論が書けるほど読み込んだ訳でもない。それだから今回はとにかく、チャールスとセバスチャンのことだけに注意を向けてみようと思う。深く読解するというのではなく、かつて同じクラスにいたとても仲の良い二人が今やもう連絡先さえ知らないと知って、彼らのことを、新橋の銀座線の薄暗いホームで電車を待つ間にぼんやり想像するというようなやりかたで。

 

 はじめに引用した会話の後、彼らは時間をかけて、しかし確実に道を違っていく。それは思想や立場の敵対といった積極的なものではなく——寧ろ接点があるという点でそちらの方が救いがあった——もっとどうしようもないすれ違いのようなものだ。

 酒に溺れたセバスチャンがイギリスを出て放浪し、たどり着いた先のモロッコで、チャールスではない別の男と共依存関係になる。セバスチャンはただただチャールスのいる「世界」から遠ざかっていく。彼が一緒に住んでいるのは足の膿んだ元軍人の男で、働こうともせず、実家が裕福な友人におぶさることに何の罪悪感も抱いていない。セバスチャンはブライヅヘッド家の人間に頼まれてモロッコへやって来たかつての友人にこう言う。

 

「ねえ、チャールス。」

「私のように一生、人の世話になっていたものにとっちゃ、自分が世話する人間がいるっていうのは嬉しいことなんだよ。尤も、私に世話されなければならない人間なんていうのは余程どうかしている訳だがね。」

                          同書(p.318)

 

 建築専門の画家として成功したチャールスと、遠い異国の地——マーチメーン夫人が見たら卒倒するような「野蛮」な国——でアルコール依存症の為に悪化する肺の炎症を抱えるセバスチャン。

 セバスチャンは自分よりもダメな人間に救われる人間だった。併しチャールスは違う。ブライヅヘッドの屋敷に魅了され、屋敷を描くことで成功の糸口を掴んだ。彼は文明の側に、社会の側にあった。

 チャールスはあの夏の日の輝きを持つセバスチャンを求めていた。併しセバスチャンはそのままではいられなかった。手を伸ばされることそのものが自分を惨めにしていく決定的な身振りになるという、あの悪循環に取り込まれたセバスチャンにとって、ブライヅヘッドに訪れては自分と家族との間を取り持とうとするチャールスは、どれだけ味方だと言っても彼の救いにはならなかった。

 

 二人のすれ違いから長い時が経って、チャールスに愛されたジュリアは、殆どセバスチャンの身代わりとして愛されたようなものだと言えるかもしれない。

 作中で何度も強調されるように「ジュリアは彼女の兄と瓜二つ」であり、またイヴ・セジウィックが『男同士の絆』のサッカレー『王女』を扱った章で指摘しているように、男AとBがいて、AがBの妹と結婚することは、妹本人とよりも寧ろ、その男同士の絆を強化するものだ。

 セバスチャンと同じ顔で、同じ血で、しかし彼よりは社会性のある彼女は——その前夫とのエピソードを鑑みても——本当に欲しいものへの回路や代替として男たちに利用される存在だ。 

 男同士の関係性を拾い上げてはエネルギーを投入してしまうという一種の傲慢さについて考えるのはこういう時だ。その裏側で犠牲になっている女たちに言及せず、仲の良さや悪さを讃えることが、自分の肉体の性を貶めることに繋がるのではないかという恐れが付きまとう。それは一本の補助線、テクストを切り開くのに有効な短剣であり、最早装備欄から外せはしないのだが。

 

 初めは強く結びついていたはずなのに、互いが互いの求めるものになれなかったせいで修復不可能なほどに離れていく二人を見て、腐女子としてはどうしても、彼らが彼ら二人で幸せになる方法はなかったのかと、否応なく考えてしまう。

 チャールスがセバスチャンよりも堕落していれば良かったのだろうか。それともマーチメーン夫人による呪いを糾弾して詰れば良かったのか。自分の未来を投げ捨てて、手に手を取ってよろよろ走り出して。しかしチャールスにそれは出来ず、それだから彼らの道は離れてしまった。

「世界を敵に回しても」と言う時、その世界とはなんだろうか。ついついそれは自分と相手以外の全ての人間と思ってしまうが、果たして世界を敵に回すとは何をすればそうなるのだろう。

 そう考えると世界というのは、第三者というよりも寧ろ自分そのものなのではないだろうか。チャールスは向うに廻す相手を見誤ったのだ。ブライヅヘッド家や他の者と上手くやることなど考えないで————それこそ妻が亡くなった後で「変人」と言われるようになった自分の父のように————セバスチャンの味方になってやれれば良かった。

 既に閉じたテクストについてそういう詮無いことを言っても仕方がないのだが、一つの時代の黄昏が書かれた小説を読むことの面白さは、自分にはどうしようもない悔いのようなものを抱くことのようにも思う。

 果たして上手く紹介出来たかは不安なところだが、ぜひ読んで見て欲しい。長いから青春時代まででもいい。チャールスの目を通して見たセバスチャンは細い華奢なグラスの中で立ち上っては弾けるシャンパンの泡の様に美しい。

 

 

 頻度は亀の如くだったが、今年もブログの更新をすることが出来た。それもこれも読んでくれる方のおかげだ。「読んだよ」と声をかけてくれる方の数に比べて閲覧数が多すぎるのがいつまで経っても謎ではある。一人200回ずつ見てくれているのか。

 来年もいろいろ書くつもりですので、どうぞよろしくお願いします。

 今回の正月は憂いなく酒を呑みます!!!!(今年は留年が決定していたので)

 

年賀状を送る気持ちで押してもらえると嬉しいボタン(リンク飛びます)。

 

 

 

それは希望を示すもの(ジュード・ロウ 撮影会レポ)

 

 『最高の人生の見つけ方』(2007)にて、モーガン・フリーマン演じるカーターとジャック・ニコルソン演じるエドワードを奇跡のような余生に導くのは、カーターが病床でこっそり書いていた「棺桶リスト」…分かりやすく言えば「死ぬまでにやりたいことリスト」です。

 『ガタカ』を観てしばらくした後で、私の「死ぬまでにやりたいことリスト」の中に新たな一項目が追加されました。
 それは「ジュード・ロウに会うこと」。それはほとんど夢物語のような願いで、死ぬまでに叶えばいいな、肉眼で見られたら御の字だな、という気持ちでいました。『ホリデイ』で見せたあの眩い笑顔を障害物なしに見ることが出来たらどんなに素晴らしいか。
 しかしある日の夕方、優しい相互フォロワーさんによってもたらされた一報により、私と夢の距離はぐっと縮まることになりました。
 それは「ジュード・ロウが東京コミコンに来る」というニュース。私は回る寿司屋で叫びかけました。向かいにいた母はスマートフォンを持ったまま呻く娘を見て「ものすごい早さで魚に当たったのかな」と思ったようですが、不整脈の波から考えれば棺桶に片足を突っ込んだと言っても過言ではありません。
 それからは当日まで記憶がありません。卒業論文を書いていたようなのですが、果たして私の頭はジュード・ロウでいっぱいだったのです。そもそもこの世でジュード・ロウに会うこと以上に重要なことなどあるでしょうか。チケットに幾ら払ったかも覚えていません。
 そうこうしているうちに当日になりました。
 事前に聞いていた通り、コミコンはものすごい人があり、且つ、何時に撮影ブースに並べばいいのかのアナウンスは全くなかった為、何の知識もないスターウォーズとマーベル作品の間で右往左往した後、このぐらいの時間だろうと当たりを付けて、雨の中、列に並びました。他の俳優の列と最後尾が合体しかかる、手が震えてチケットが取り出しにくい、などのトラブルはありましたが、どうにか直ぐそこに、ジュード・ロウのいるブースを臨むという位置に来ることが出来ました。嫌が応にも私の胸は高鳴ります。

 ………………………

 …………………………………

 ……………………………………

 ……………………………

 ………ハァッ………スッ……………………ヘァッ……………

 会いました。
 絶句とため息を繰り返してブースを去ります。
 ほとんど記憶はありません。いい夢を見た時ほど、その内容を覚えていないのと同じように、私の記憶はコマ送りのように断片的な記憶しか残っていませんでした。
 とにかくそれまで想像していた何千倍も顔が良いのです。何か発光体のように輝いていたことばかり焼き付いています。その声の甘さ!青い目の透き通る美しさ!
 ガタカのユージーンを好きだと、拙い英語で伝えられたことは、その緊張の度合いから言って驚きでした。私の棺桶リストも良くやったと頷くはずです。
 混乱するまま歩いて行った隣のレーンで受け取った写真には、素晴らしく顔の良い男と、ものすごくニヤついた顔の妖怪が一匹。あまりの飾っておけなさに私は失望しましたが、帰路に着いた私は、額縁に入れて紙か何かでそれを隠せば良いのだと、名案を思いつきました。
 これまた全く記憶にない帰り道の途中、私はひとまず百均で額縁を買い、家に帰って妖怪然とした人間——私のことです——を隠すことに成功しました。


 以上が私の記憶喪失レポです。
 東京コミコン撮影会。10秒程度で剥がされる、それはまさに——事前に聞いていた通り——オタクのベルトコンベアではありました。カードの決済を見てチケットの値段も思い出しました。それでも、どうしたって私には後悔出来そうもないのです。
 今こうやって写真を見ると、実際に間近で、この目で見た、その、写真の何倍にもなる輝きを思い浮かべることが出来ます。
 それは私にとってまさしく奇跡のような出来事であり、そういう奇跡があったことそれ自体が、この世に素晴らしいものがあるということの証左として、これから長く私を支えるものになるのだと思われるのでした。

 

 

 

「タピオカを飲む女は頭が悪い」のか

 

 表題と中身にはさほど関係がない。

matogrosso.jp

 

 イースト・プレスのWeb文芸誌「Matogrosso」で連載中の漫画、「カイニスの金の鳥」をぜひ読んで欲しくてこのブログを書いている。

 どういう作品か。

 19世紀イギリス。片田舎に住む主人公は、本を読み小説を書くのが好きだ。しかし「女の自分が書いた小説」を周囲の人々に見せても「女の遊び」などと言って舐め腐られる。

 そこで男性の筆名でロンドンの出版社に送ったところ、なんとあっさり出版の運びとなり、男友達や住居を得ることが出来た。主人公は女の自分では見られない景色を見るために、男装してロンドンでの生活を始める。

 

 ざっくり言うとこういう話である。が、あらすじだけでも好きな人にはかなり刺さるんではないだろうか。

 この作品の良いところは、主人公とは違う価値観を持つ人物を、悪人として描いていないという点だ。

 自分が書いた小説を「女の遊び」と言う男。難しい本を自分の手から取り上げて「君には無理だよ」と善意で言う男。ロマンスや恋に憧れ、良い男に見初められるチャンスが来た時に備えて自分の腰をコルセットで締め付ける親友。

 主人公はそれらの人々や、人々が思う「自明の決まりごと」に苛立ちはするが、それらを切り捨てたり、憎んだり、糾弾したりしない。ロンドンに行く時にも「こんな田舎出て行ってやる」などとは言わない。「男の名前で有名になって、名声が高まった時に、その正体が女だと明かしてやろう」という野心的な計画を持ってはいるが、世界そのものを憎みはしない。

 他者の愛や善意を認めながら、しかし、女という性をめぐる規範の息苦しさに抗う主人公のあり方は、世界の全てを敵と見なすようなキャラクターよりも遥かに魅力的だ。

 現在は6話まで公開されている。主人公がロンドンでどのように生活していくのか。続きが気になる漫画である。

 

↑押すとタピオカ愛飲者を馬鹿にする誰かがタピオカの美味しさに目覚めるボタン(だと良いですね)。

  

 

名探偵ピカチュウとデカい蟹

 

 お久しぶりです。元気ですか? 私は元気です。

 

 約一ヶ月ぶりのブログだ。書き方を忘れてしまって足取りが覚束ない。

 リハビリも兼ねて、最近観たものの感想でも書いておこうかと思う。

 

 まず劇場で『名探偵ピカチュウ』をみた。

 端的に言えば、ものすごく良かった。

 これは映画としての評価というよりも、ポケモンというコンテンツの二次創作として120点だという意味だ。

 

 ポケモンと一緒に駆け回ったあの頃。強くないけど好きなポケモンがいて、味など度外視でポケモンパンをねだり、友達が兄ちゃんの友達から教わったという裏技を試して壁にめり込んだ、あの日々。

 ゲームをエメラルドから始めた私の相棒はバシャーモだった。幼い私はとにかく何においても火が強いと思っていた。火力こそパワーだ。今でも爆発こそパワーだと思っている節がある。

 アニメを通して好きになったのはゴマゾウだった。好きだから突進する。突進するから敬遠される。遠ざけられても好きだから突進する。その不器用な在り方と、水色とオレンジのボディにメロメロだったのだ。

 

 だから犬よりも猫よりも何よりも、飼いたかったのはゴマゾウだった。

 もしもゴマゾウが家にいたら。ぶつかって来ても絶対受け止める。軽くて丸いからきっと大丈夫だ。耐えられなければ筋トレしよう。ドンファンには進化させてあげられないけど、ゴマゾウの喜ぶようなトレーナーになれるだろう。

 「ポケモンが現実にいたら、バトルよりも、ただ一緒に暮らしてみたい。」

 そんな風に思うポケモンキッズは意外と多かったのではないだろうか。

 

 この映画は確かに「主人公とピカチュウの冒険譚」ではあるけれど、一方で「ポケモンがいるifの地球」を描いた作品でもある。交通整理をするゴウリキー、消火活動に勤しむゼニガメ。街をゆく人々に連れそう多くのポケモンたち。

 名も無い人々が描かれることで、ポケモン世界は奥行きを増す。そしてその広い世界のどこかには、自分の好きなポケモンと暮らす並行世界の「私たち」がいると分かるのだ。

 

 実写化が何かと批判されやすい中で、それでもこの映画が好評を得ているのは、自分がかつて夢見た世界をスクリーンに見ることが出来るからではないだろうか。

 

 ポケモンが好きだった人はもちろん、主人公の外部に広い世界や多様な人々が見える物語(例えば『エリア51』や『血界戦線』やFGOカルデア職員)にピンと来る人に刺さる映画だと思う。

 

 それからこれは完全な余談だが、アマプラで見られる『ビック・クラブ・パニック』という映画。ピカチュウと同じ週に観たのだが、これはもう世界の広がりもへったくれもないB級映画で、ナンパ男を撃退する女たち、デカい蟹、我が子を失って嘆くデカい蟹、デカい蟹のデカい抜け殻、とにかくデカい蟹という概念が見どころだ。

 ピカチュウとデカい蟹を続けて鑑賞することで、映画というものの振れ幅のダイナミズムを感じることが出来る。

 

 

↑押してもらえると元気になります。

 

 

 

 

 

 

第六夜をBL的に読解する

 

 今回は有栖川有栖『高原のフーダニット』(2014、徳間書店)に収録されている「ミステリ夢十夜」について、腐女子的な視線から考えてみたいと思います。

 

 第六夜の最初の印象は「火アリっぽいな」でした。

(火アリがどのようなカップリングか知らない、ネタバレされたくない、BL的に読むなんてけしからん、という方がいればお帰りください。悪しからず。)

 

 しかし第六夜に火村はいません。火村がいないのに火アリに読めるのはなぜか。

 その謎を、ここでは考えてみたいと思います。

 

 まず、ミステリ夢十夜という作品は、作家シリーズの語り手である有栖川有栖が見た夢、それも尽く何らかの「謎」が中心となった、10の夢からなる短編です。それらの内容と登場人物を簡単に書き出してみると、以下のようになります。

 

 

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注:仮題は整理のためにつけたもの


 

 

 こうしてみると、第六夜が他の夢と比べて特異であることが分かります。

 そう。唯一火村が登場していないのが第六夜なのです。火村の名前自体は有栖の口伝てに出てくるのですが、実際に有栖と対峙するのは、現実のお隣さんであり、英語教師の真野さんです。

 火村が退場し、真野が登場した。では真野さんは火村に取って代わりうる人材なのか? しかし読み進めていくと、そうではないことが分かります。

 

 第六夜は、有栖が真野医師のカウンセリングを受ける話です。「大学で犯罪学を教えている友人と殺人事件に巻き込まれる夢を見る」と相談していた有栖は、真野医師の背後にある、横に細長い窓の向こうを、灰色の影が横切っていくのを目撃します。28階の窓をよぎる影。不思議に思って真野医師に影の話をしても、彼女は錯覚だと言って取り合ってもくれず、夢についても常識的なアドバイスを返すばかりで、薬などの具体的な解決策もナシ。

 そのような通院を繰り返していたある日、有栖はうっかり一本遅い電車に乗ってしまい、いつもなら診察している時間に、真野クリニックを外から観察する機会を得ます。それでようやく有栖は影の正体を知ることが出来、「自分で謎が解けるというのは快感だ」と思う、という夢です。

 

 この第六夜を除く全ての夢で、火村はしつこいぐらいに「解き明かす者」として有栖の夢に登場します。一種の超越的な閃きの力をもって、本来ならば火村には分かり得ないような謎の真相をズバズバ言い当て、或いは有栖に厳しい選択を迫ります。

 そのことから、有栖の夢の中で­――これは無意識下でと言い換えてもいいかも知れませんが――火村は探偵であり、鋭い目をした狩人であり、とにかくスゴい奴だということになっていることが読み取れます。

 

 もしも真野さんが火村の代替として機能するなら、彼女にも謎解きの才能がなければなりません。しかし第六夜で謎を解くのは有栖本人です。真野医師は現実主義的な女医として「謎の影」の存在そのものを否定する。これは火村に比べると、些か魅力に欠ける身振りです。遠く離れた北の地に親友の電話一本で駆けつけた男と比べるのは、残酷かも知れませんが。

 

 有栖の夢という舞台における火村の役が「解き明かす者」だとすれば、真野さんは何の役を負っているのか。職業が英語教師から精神科医へと変わっていることを鑑みると、真野さんの役は「正しい人」なのではないかと考えられます。白い病棟、白衣、白衣と黒髪の鮮やかな(=明確な)コントラスト、そして普段と異なる断定的な口調。

 しかしその正しさは、真実を言い当てるというよりも、どちらかと言えば四角四面的な、世間的な正しさです。彼女に謎解きの力はありません。有栖は悪夢をいつの間にか見なくなっていたし、真野医師の診察はいつもどこか見当違いで、影の謎は有栖が自力で解いてしまった。

 

 第六夜は、有栖が謎を解いてご機嫌になり、真野さんに報告に行かなければと考えて終わっています。そこで、描かれていないその後を考えてみます。

 あくまで推測ですが、有栖はその謎を真野さんに報告はしても、二度とそこに通院することはないのではないでしょうか。これがミステリ夢十夜である以上、そしてそんな夢を見るほど謎に惹かれる有栖である以上、探偵もいなければ謎もない精神科のカウンセリングに行く意味も魅力もない。精神科に人間ドッグはありません。

 

 するとその一方で、ありありと「解き明かす者」としての火村の不在が浮かんで来ます。

 正しいけれど、謎そのものを否定する真野医師。うっかりと偶然で謎を解く有栖。

 「窓の外を横切る灰色の影」などという平和な謎を解くのでさえ、彼らではこのように覚束なく、頼りなげです。ならば人が死んだなら。もっと複雑な事件が起こったら。そこには誰がいなくてはならないのか? 誰にいて欲しいのか?

 第六夜の世界は、鋭く光る探偵=火村を求めます。

そしてそのように読んでみると、第六夜とは、そのテクスト全体で「火村の不在はこんなにも寂しい」と叫んでいる小説だと結論づけることが出来そうです。

 

 火アリのように読めたのは、火村を信頼する有栖が作品の後ろに透けて見えたからなのでしょう。エモいですね。

 二人のゴールデンウィークには、何か美味しいお菓子を食べ、猫と遊び、酒を飲みながら映画を観る、そんな最高の休日を過ごして欲しいですね。永遠に共にいてくれ。

 

 薄々感づいてらっしゃると思いますが、久しぶりに真面目にブログを書いたので上手い終わり方が分かりません。そこで、これからの火アリのご発展とご清栄を願って終わることにします。別に清くなくてもいいんですが。

 

 それではまた。

 

 

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